森本哲郎「おくのほそ道行」
2007年 05月 05日森本哲郎「おくのほそ道行」
1984.4 平凡社・刊 ¥2,300
写真 笹川弘三
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。・・・」松尾芭蕉「おくのほそ道」の有名な書き出しです。高校の古文で習いましたね。
TVでよく見かける森本毅郎サンの賢兄・哲郎サンの労作です。
「昭和58年5月16日、芭蕉の歩んだ道をできるかぎり忠実にたどって、300年前の芭蕉の旅をしのんでみようと思っ」て、出かけた訳ですね。
チョット見難いかもしれませんが、「おくのほそ道全行程図」をご覧下さい。
芭蕉は、3.27(新暦5.16)に深川を出発、約半年をかけて9.6(新暦10.18)大垣に辿り着いています。
お供は弟子の河合曾良。詳細な日記をつけていたようです。
芭蕉の「おくのほそ道」は、現実の問題、つまりお金や食べ物の記述がほとんどなく、「こうまで俗事を切り捨てた旅の記というものは、おそらく日本独特のもの」なので、同行した曾良が丹念につけた日記が大きな価値を持つようです。
森本サンによれば
「彼(芭蕉)にとって旅とは詩想を触発するための手段にすぎなかった。芭蕉は現実の世界を見きわめるために旅をしたのではなく、自分の内面を見つめるために、そして詩的なイメージを育てるためにみちのくをさまよったのである。そして、これこそが芭蕉のみならず、日本人にとっての理想的な旅、旅の手本なのだ。」
「日本人の旅とは、けっしてあてどない漂泊の旅ではなく、歌枕を訪ね、社寺を参拝するという文学と宗教とを、すなわち美と信とを求める遊行なのだ。」>
「日本の詩人たちにとっては、実際の景色など、どうでもよかったのではあるまいか。そんな現実の姿よりも、そこにつけられた地名が胸中に呼び起こしてくれる詩的なイメージのほうが大切だったのである。」
<雨漏りメモ> 歌枕:もともとは歌に用いられる言葉、雅言集くらいの意味だったが、歌に詠まれる地名、名所のことになり、詩情を象徴するものや場所の意味になっていった。
ご案内の通り、当時の旅は、現代に比べて実に苦しいものだったようですが、芭蕉もご多分に漏れず度々窮状に見舞われています。
江戸や仙台などで知られていた芭蕉の名も片田舎では通用せず、宿を断られたことも何度もあったようです。
「安易な旅、快適な旅は楽しみ以外の何も残してはくれない。まことに、最悪の旅こそ最良の旅だと」森本サンは思うのです。
それではいくつかの有名な場所をご紹介していきます。
最後に、また森本サンの言葉を引用します。
「たしかに象潟までの芭蕉の旅は、先人に心を奪われ、ただひたすら何かを求めて歩いたように思われる。だが、その旅の終わりに、彼はついにその何かを得たのである。そしてそれを得ることによって<不易流行>をさとり、<軽み>へと進んだ。」
巷間、「芭蕉は隠密だった」なんてことが言われることがありますが、トンデモナイコトデゴザイマス。
各ページに載ってる原文を読むと、これはまさに芭蕉にとっては求道の旅にほかならないのです。
そして彼は、この旅によって或る高い境地にまで達し、俳聖といわれるようになったのだと思います♪