時実新子サン 略歴

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句集「有夫恋」をご紹介しましたが、彼女の私生活を、もっと知りたいという、或る意味、覗き趣味乃至助平根性から、エッセイ集を何冊か借りて読んでみました。

←2004年頃の新子サンです。









時実新子 略歴

   1929年 岡山市生まれ
          1945年 岡山県立西大寺高女卒
          1946年 姫路市へ嫁ぐ(17才)
          1947年 長女誕生(18才)
          1951年 長男誕生(22才)
          1985年 夫死亡
          1987年 曽我碌郎と結婚(58才)
          2007年 死去

「再婚ですがよろしく」平成7年6月 海竜社・刊 ¥1,400
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「思いもかけないしあわせ」平成10年8月 PHP・刊 ¥1,575
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「悪女の玉手箱」平成14年11月 有楽出版社・刊 ¥1,575
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色々判って来ました。
あの”過激な”川柳を生み出した背景、実によく納得出来ましたヨ。

岡山県生まれということになっているが実際には香川県の沖合の塩飽諸島の一つ本島字笠島で生まれたらしい。ここは母の故郷だ。
父と母は神戸で出会って姉と私が生まれた。
父は小豆島の産。

この父は、新子が嫁いだ数年後に母を捨てて、余所の女と出奔し心中未遂を起こしている。(また、戻って来た)
姉も、婿入りした義兄(役人)を捨てて、”とんずら”し、後に離婚している。
新子も、子が育つのを待って、48才で家出し、6年間、大阪府茨木市で過ごしている。
このときは、時給200円で働き、夜は”書いて”いた。サービスエリアの公衆便所の二階を借りて暮らしたという。

四人家族のうち、三人が配偶者を捨てて家出する!!という、なんともユニークな、ハゲシイ一家ですね。
何もしてないのは母だけ。(母は無学な人だったと新子は言ってます。) 父の血が娘達に伝わったんですかね。

初恋は女学校の音楽教師だったが。新子17才の誕生日に求婚され、河原で初キスをした。
しかし、彼は複数の女学生にラブレターを出すような男で、当然この恋は成就しなかった。

新子の家は前述のように二人姉妹だが、姉には恋人がいたらしいのに、婿養子を取るように強制された腹いせからか、新子を、今すぐに嫁に出すなら婿を貰ってもよいというワガママを言い出し、母の一存で新子の結婚は決まってしまった。
女子医専に合格していたのに、学校が空襲で丸焼けになってしまい、ここへの進学はあきらめざるを得ないし、しからばというので頑張って推薦を得ていた奈良女高師(奈良女子大)への進学の道も断たれてしまった。

17才で姫路に嫁いだが婚家は大家族の文具店。夫は10才年上の27才だった。
夫は、2種予科練上がりの傷痍軍人。頭に弾丸を受けていて、傷の発作で暴力を振るうような男だった。
それも新子に対してだけ。今で言うDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)というやつですね。
新子さんは言う「地獄のような生活を39年も全うした」が「家族を捨てて何べんも何べんも逃げようとした」そうです。
「地獄」とは、大家族の中の苦労や、夫のあくなき暴力を指しているのではないようです。
それは「夫を、とうとう好きになれなかった」ことでした。

当時、戦後の数年間は、復員兵と女学生との組み合わせは、ごろごろあったそうで、とくに敗戦直後のどさくさに進駐軍を無闇に怖れて「それ嫁(い)け、やれ嫁け」と母に追い出された形ですね。無学な母のやりそうなことです。

♪投げられた茶碗を拾う私を拾う♪
「夫は戦争で頭に傷を受けた気の毒な人だから、なんぼでも投げればよいと思っていた。的が私にかぎられているのもありがたいことだった。”死ねっ!”と思わなかったらウソになる。」
夫の暴力は恒常的なものだったようです。「耐えながら夫を軽蔑した。叩き返す手さえ汚れる。口答えするさえ厭わしい。」

今だったら、即・離婚・・・ですね。 新子さんは何故こんな結婚生活を続けたのでしょう?
当時の倫理観、教育のしからしむるところでしょうか? (嫁しては夫に従い・・・)

後年、こんなことも言ってます。
「10才年上の前夫、きらいではないが、好きにもなれなかった。そのまま死別した。生涯キスを許さな」かった。
「キスは好きな人とするものだから」。
加賀まり子のデビュー作?で、娼婦を演じる彼女が「ボディOK、キッスNO!」と叫ぶシーンを思い出してしまいました。 ww

そして「私を通過していった数少ない男たち」が居たんですねぇ。
そのうちの一人でしょうか 「・・・そのまま終われば粋なのに、男が白いカバンを提げて家出してくるわ、その女房が『夫を返せ』と怒鳴り込んでくるわで、さんざん痛い目にあった・・・」ということもあったようです。
ついでに、「有夫恋」というのは彼女の造語で、不貞、不倫という言葉が嫌いだとも言ってます。

さて、「50も過ぎて、夫に隠れて今の夫に逢っていた」ようですが、この人は出版業をやっていて、新子さんの「第二句集」や、書き下ろしの本を出してくれたんです。ロイド眼鏡の怖いおじさん・・・という印象を持ってたみたいです。
これが、友人→恋人→夫 となった曽我碌郎氏ですね。
「五十代(58)でなにをまちがえたか--強いて言えば再婚」をしてしまうんです。
「世間的には再婚。ところてんのように押し出された十七才の嫁入りを私は結婚と思っていない。初めて自分の意思で結婚した。」と言ってます。
ところが、或る講演会で「貞女は二夫にまみえずっ!」と叫びだした、どこかのおばあさんが居たことも記されています。有名税の一つですかね。まぁしかし58才での再婚というのも、そんなによくあることじゃありませんね。

しかし、この再婚も、非の打ち所がない・・・というものではなかったようです。
男女の”おつき合い”と”結婚”は全然別のものですからね。
何も、その年になって結婚しなくても。ただおつきあいだけしててもいいのに・・・と一般的には思われますが、「・・・なにをまちがえたか・・・」と言ってるように、新子さん、「まちがえた」のか、ただ照れているだけなのか、よく判りません。

こんな風に愚痴ったりしています。「通行人より、しらしらと心がすれ違っているので、それぞれが一人暮らしの様相である。夫とは思えないので『ミスター某』という名を献じた。」
こういう記述が時々出て来るんです。

でもまぁ夫と妻としては概ねフツーに暮らしたようですが、結婚生活の間、夫は色々と病魔に冒され、癌になって人工肛門を付けるようになり、その器具の洗浄などを妻としてちゃんとやっていたようです。
この頃は、経済的には新子さんが殆ど主務的役割を果たしていたようです。
夫の欲しがるものを大抵は買ってやり、大きいものでは秋田に山荘を買い、仏像まで買って開眼供養もしています。

二度目の夫は結核で亡くなったそうです。

1993.3~7 神戸新聞に<わが心の自叙伝>を連載したそうで、これが入手できれば、もっと系統立てて新子さんのことが分かるんですが、既掲の3冊のエッセイ集を拾い読みしただけなので、こんな不出来な記事になってしまいました。
ご海容を乞うと共にお付き合いくださりありがとうございました。
by amamori120 | 2007-05-03 00:11 | 時実新子「有夫恋」