生島治郎「浪漫疾風録」
2007年 04月 30日
生島治郎「浪漫疾風録」
1993.10 講談社・刊 ¥1,600
なんとも勇ましいタイトルですね。
またハードボイルドかなと思ったんですが、殆どミステリー文壇?的自叙伝でした。
ただ本人の名前は越路玄一郎---「片翼だけの・・・」シリーズ でおなじみですね。
他の人たちは全員実名なんです。

大学を卒てから早川書房で編集者をやった十数年間のことを綴っています。
早大を卆たけれど、世は不景気。まして英文科を低空飛行した彼には就職口は皆無。
仕方なくバイトをしていたが、早川書房(神田駅の直ぐ傍。行ってみると普通の古びた木造二階建ての仕舞た屋だった)が「ポケット・ミステリー」の成功に気を良くして、 「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン(EQMM)」日本版を出すので、編集部員を募集していて、画家の勝呂忠の口利きで受験させて貰うことに。なお、EQMMの日本版の発行を早川書房にすすめたのは江戸川乱歩だった。
編集部長は、『荒地』所属の有名な詩人、田村隆一。図々しさが田村に気に入られ60倍の競争率を乗り越えて見事合格するも月給はバイトの時より低い金額だった。
当時、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞、太陽族なるものが流行っていた。
EQMM日本版創刊号は、新感覚の翻訳誌ということで高い評価を受け売れ行きもよかった。
江戸川乱歩が自ら翻訳した作品も入っているということで、話題を呼び、本も高級ミステリー誌という印象を与えるオサレなものだった。
新しくEQMMの編集長として入って来たのが都筑道夫。独学で英語を勉強したのだが、その読解力は非凡なものがあり、翻訳する作品のセレクトに威力を発揮した。
早川書房の『ハヤカワ・ポケット・ミステリー』は、私も何冊も読みふけったものですが、今の新書版より少し背が高いサイズで装丁もしゃれていて、箱入りだった。
この部門の編集長は福島正実だった。
良心的な翻訳で地道にミステリーファンを増やしていたが、原稿の段階でトンデモナイ誤訳もあった。
”Coloured man from Africa”を”アフリカから来た色男”と訳したり、「スコットランド・ヤード」をロンドン警視庁じゃなく「スコットランドの庭」と訳したり。
新刊の海外ミステリーを紹介するコラムがあって、中村真一郎、福永武彦、丸谷才一などが執筆した。

原稿取りは越路の仕事だった。
またEQMM日本版で新人コンテストをやったのだが、そのときの選考委員は、門弟三千人と言われた佐藤春夫。あとは福永武彦、大井広介だった。
あの佐藤春夫が「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン」の選考委員とはっ! 驚きですね。
この佐藤の門弟の中には、安岡章太郎、遠藤周作、吉行淳之介、近藤啓太郎、柴田練三郎もいた。
壽屋(現・サントリー)の宣伝部でPR誌「洋酒天国」の編集に当たっていた山口瞳や開高健とも付き合いが出来た。
当時の開高健は、実にスリムだった、いや痩せこけていたようだ。
しかし、のちに丸谷才一、井上光晴とともに文壇三大音声と呼ばれたくらいの大声だったという。
有能な編集長だった都筑道夫は「ショートショート」を、初めてわかりやすく日本に紹介した人物で、このジャンルで最も有名になったのは星新一だった。彼が世に出たのは江戸川乱歩の推挽があったからだが、大藪春彦も乱歩に目を掛けられていた。
翻訳者を育てるのもEQMM編集者の大事な仕事。越路が特に親しかったのは稲葉明雄。また翻訳者として、平明でわかりやすい文章で、めきめき名前を挙げてきたのは田中小実昌だった。後に直木賞作家になる。
編集部長の詩人・田村隆一が早川書房を辞めることになった。
そして越路は、ヒョンなことから田村の下訳をやっている杉山喜美子と恋仲になり、結婚へと進んだ。
越路が26、喜美子が25歳だった。本書では触れられていないが、後に離婚する。
推理小説作家、小泉喜美子ですね。デビュー作は「弁護側の証人」。高木彬光が激賞し文春から出版された。
評判が良く、TVでも紹介された。私も彼女の「血の季節」 を読了しています。
「ミステリー歳時記」が彼女の遺著となった。(51歳で急死)


高木彬光は、ミステリー・ライターが天職のような人物だった。
松本清張の作品が次々とベストセラーになるにつれて各出版社は推理小説を見直すようになり、戦後第二次といわれるミステリーブームが来た。
新進気鋭の作家としての佐野洋とも関わりが出来、意気投合した二人は老境に至るまで親密な関係だった。
EQMM編集長。都筑道夫が早川書房を辞めることになった。翻訳家でありミステリー評論家としてよりも作家としての都筑道夫が待望されており、彼も決心してデビューすることになった。(彼の本、80冊以上読了です。)
その後釜として越路がEQMMの編集長となる。26歳の時だった。
そんな時、結城昌治の処女長編「ひげのある男たち」を、早川が出版することになったが、これは、日本の推理作家の書き下ろし作品を出す初めてのケースで、越路は、理解のない社長はじめ幹部を説得するのに大汗をかいた。
その頃、常磐新平が入社してきた。英語力が抜群で、原書を読んでセレクションするのに活躍した。
EQMMの成功を見て、競合誌が登場した。「ヒッチコック・マガジン」と「マンハント」だ。
「ヒッチコック・マガジン」の編集長は中原弓彦。別名小林信彦。 (Cf.UP済み記事)
中原の独創的なやり方(拳銃特集等)で「ヒッチコック・マガジン」はEQMMと並ぶくらいまで部数を伸ばして来て、越路を冷や冷やさせたが、やがて飽きられ部数を落とした。
、
EQMM日本版は本国版にない作品も載せていたが、越路は、ショートショートを、星新一はじめ山口瞳、眉村卓、小松左京、筒井康隆等に頼んでいた。
福島正実が編集長の「SFマガジン」の第一回コンテストで小松左京と半村良の二人が入賞したのもこの頃だった。
小説の世界では、いままで探偵小説は一段低く見られていたが、普通の小説と同じ位置を与えられるようになってきた。
清張以後探偵小説より推理小説という名の方が通りが良くなってきた。
佐野洋、結城昌治、河野典生、樹下太郎、多岐川恭、笹沢左保、大藪春彦という新人たちが注目を浴び、
陳舜臣、鮎川哲也といった中堅どころも意欲的に作品を発表していた。
水上勉、黒岩重吾、有馬頼義なども社会派推理小説のベストセラー作家となっていた。
一方、歴史小説。時代小説というジャンルには南条範夫、司馬遼太郎、柴田練三郎、池波正太郎、五味康佑という作家群がいて圧倒的な支持を集めていた。
越路は、月給より内職原稿料の方がはるかに多くなっていて、妻・喜美子の強い勧めもあって、物書きとして独立することになった。
彼のジャンルは、これまで日本にはなかったハードボイルド小説だった。
その処女作は「傷痕の街」。昭和39年3月に出版された。
越路が早川書房に勤めていた七年ほどの年月は、まさしく疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)の時代だった。
by amamori120
| 2007-04-30 20:41
| 読後感・本の紹介

