「戦国街道を歩く」泉秀樹
2007年 04月 23日
戦国街道を歩く 泉秀樹 文と写真2000.12 立風書房・刊 ¥1,785
戦国時代の歴史の流れに沿って、往事に思いをいたしながら、実際の街道を歩いた、街道探訪シリーズの一つです。

鉄砲・キリスト教の伝来、川中島における竜=上杉謙信、虎=武田信玄の戦い、織田信長のデビューから本能寺での最期まで、太閤秀吉の夢の跡、最終的覇者となった家康・・・大きな流れから小さな流れまで、戦国時代の様相と、彼らが実際に歩いた道を観て行きます。
この著者の人物・事物へのおもしろい評をいくつかご紹介してみます。
☆謙信:毘沙門天の化身として上洛し、「毘」の軍旗を立てて朝廷と室町幕府を再興したいと・・・
:戦上手であったものの、風のように通過するだけでなにも残らず、政権のグランドデザインも持たない田舎武将のまま、謙信は49才の冬、脳溢血で倒れた。
:古いタイプの部将だった謙信は、関東管領・上杉氏からその姓を貰い・・・
☆信玄:ヨーロッパ先進国が植民地をキリスト教化して支配力を強化させようとしたやり方と同じ方法で、信玄もまた善光寺の本尊を自国に持ち帰り、身近に置いて人心を掌握しようとした。
:謙信と同じく、神仏を重んじる、いかにも中世的な祭政を一致させようとする古いタイプの武将であった。 中世を象徴する武将。
☆金ヶ崎の退き陣:信長・家康は越前の朝倉氏を攻略しようと出陣したが、浅井長政の裏切りに遭い京都まで逃げ帰ったが、信長、光秀、秀吉、家康という天下人になった四人が必死で遁走した日本史上空前絶後の事件である。
☆朝倉義景:現代日本の政治家を連想させる、新しい時代の到来に鈍感で、行動力と判断力に欠ける人物であった。
☆長篠の戦い:よくご存じのように、武田の精強騎馬軍団が、馬防柵と3000挺の鉄砲の前に惨敗した戦いですが、信長はこのとき中世の壁を撃ち砕いて近世の扉を開いたが、日本人は20世紀になってアメリカに挑み、豊富なTNT火薬に、武田勝頼のように竹槍で突撃して惨敗することになった。
☆戦国時代は天下を取るためには肉親を殺害しても耐えられる神経が不可欠であった。
☆スペインとポルトガルが、1494、ローマ法王の権威を背景に、地球を半分ずつに分けて、それぞれの植民地にする地域、縄張りを決めたトルデリャス条約を結んでいて、日本もその対象にふくまれることになったことなど、当時の日本人には想像も出来なかったことだろう。
☆信長:家康に正室(築山御前)と長男(信康)を殺せと命じた。天才・信長はサディストでもあった。
☆光秀:享年57才。文学的教養があって知的で誠実、生真面目で良心的な男は天下人としての適性がとぼしいことを証明する典型的な人物であった。
☆家康:本能寺の変の後。情勢判断がやや遅く消極的だったため、とりあえず秀吉の風下に立たなければならなかった。
:堺から伊賀越えで岡崎に逃げ帰った訳だが、信楽の小川城で 腹を空かしていた家康一行は、供された飯を手づかみで食べた。家康は醜男だから、さぞ醜悪な情景であったろう。
☆柴田勝家:明るい性格の闊達豪快な男だったが、秀吉のように先を読む能力がなかった。
☆前田利家:秀吉は天下人になり、利家は勝家を裏切ったことで加賀百万石の太守になることができた。
☆アレッサンドロ・ヴァリニャーノ:少年使節をヨーロッパに送った。穏健な人物であったと言われるが、ポルトガル国王宛の手紙には、日本を植民地扱いした言葉を使っている。
☆秀吉:妹・旭姫を家康に正室(人質)として押しつけて政治的配慮をした。旭姫も家康も辛かったことだろう。
:死因は老人性結核、喘息、腎虚、肺癌などの説がある。享年62才。秀吉のような英雄にも、ただの庶民にも死は平等に訪れる。
☆文禄・慶長の役:海將・李舜臣に海の補給路を断たれ、明・朝連合軍の頑強な抵抗に苦しむ・・・ Cf.高麗秘帖
★竜虎であった謙信と信玄、天下布武を目指した天才・信長。工夫と創意で成り上がった秀吉。それぞれが戦国街道を走り続け、そして家康が豊臣家を滅亡させて、戦国時代がようやく終わった。
☆最後に大好きな鎌倉の話:秀頼には側室に子供が二人いた。男子は京都・六条河原で首をはねられたが、女子は剃髪し、鎌倉・東慶寺に入った。法名は天秀法泰。東慶寺二十世となった。墓石には「秀頼公之息女」とある。











右下:横浜三溪園 (聚楽第の一部を移築)



鎌倉・東慶寺

