いうはやすくおこなうはかたし

いうはやすくおこなうはかたし_d0065324_11132520.jpgかの別役実センセイの面白い本をまた見つけました。
題して ことわざ悪魔の辞典
そこらの、ありきたりのことわざ辞典と違って、音韻法則に則って知性の柔軟さと謙虚さを必要とする定義を示してくれます。
ホントはご一読願いたいのですが、皆さん色々ご都合もあるでせうから「世間遺産」 同様、拙が順次ご案内して参りたいと存じます。   どうかご贔屓にぃ038.gif



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1997.10  王国社・刊  ¥1,680  A-09-084



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  「いうはやすくおこなうはかたし」

「言うは安く、行うは高し」というのが現代風である。つまり、テレホンセックスなら電話代だけですむが、ソープランドへ行くと目玉の飛び出るほどふんだくられる。もちろん、どうして「言う」だけでセックスが可能なのか、ということが問題であるが、今日では、あらゆる行為が情報化され、ほんのちょっとした想像力さえあれば、それをまた自らの行為に組み立て直すことが出来るのである。「行う」ことでしかそれが可能でないと考えるのは古いタイプの人間なのだ。


「いえまずしくしてこうしあらわる」

「貧乏人の負け惜しみ」と言われているが、必ずしもそうではない。確かに「孝子」は、金持ちの家にも貧乏人の家にも公平に出現するが、金持ちの家にはほかにも色々と「いいこと」があるから、、「孝子」のひとりやふたり現れても、ちっとも目立たない。それにひきかえ、貧乏人の家には何も「いいこと」がないから、「孝子」がひとり現れると、ともかくそれしかないのだから、あられもなく目立つのである。つまり、この場合の「あらわる」は、「現る」のではなく、「顕る」の意味にほかならない。


「いきうまのめをぬく」

「目」は普通、「抜く」とは言わない。「えぐる」である。「抜く」のは「尾」にほかならない。しかも馬の「尾」は、最上等のテグスとして、古来より釣り人に珍重されていた。したがってこの言葉は、かつて「生き馬の尾を抜く」として通用していたものであると、容易に判断することが出来る。その「尾」が、何故「目」に変わったのか。言うまでもない。「尾」を抜こうとすると、馬に蹴られるからである。したがって、この言葉は、一般に通用している意味と違い、「楽をして役に立たないものを得る」の意に解すべきであろう。


「いざかまくら」

かつて鎌倉には幕府があった。したがってこの言葉は、「危急存亡の秋(とき)」のことを言い、その時、直ちに駆けつけられるよう、槍具足を整えておくのが、武士のたしなみとされていた。しかし、現在、鎌倉は文士の街である。当然ながらこの言葉も、人が文士になれそうになった時、つまり「芥川賞」などを受賞した場合のことを言い、その時、それらしく「受賞の言葉」を言えるよう、常日頃から用意しておくのが、文士の卵のたしなみとされている。「このような賞があることは知っていましたが、私自身がいただけるなんて、思いもよりませんでした」と、やや口ごもりながらたどたどしく言うのがコツである。


「いしのうえにもさんねん」

石の上にだって三年も坐っていれば、馴れて坐りやすくなるという意味であり、何事も我慢をしなければならないというたとえに使われる言葉であるが、問題は、石が坐りよくなると逆に、座布団が坐りにくくなるということである。どうもふわふわして、尻が落ち着かないというのだ、そこで、やはり石の方がいいということになるのだが、一般家庭で座布団の代わりに石を用意してあるところは、きわめて少ない。もちろん、「石の上にも三年」「座布団の上にも三年」と、双方に馴れると板の間に坐れなくなる。人間という生きものは、度し難い。


「いしばしをたたいてわたる」

似たものに、「醜女に貞操帯」というのがある。この場合は、放っておけば誰も見向きもしなかったものを、亭主がいらざる用心をしたばっかりに、本人もその気になり、周囲も何となく、ちょいと手を出してみたくなったりするということである。つまり、逆効果という奴だ。だとすれば、石橋にも同じことが言えるに違いない。石橋が落ちにくいのは、「落ちるわけがないじゃないか」という石橋の自信によるのだが、それが叩かれる度にゆらぐに違いないからである。用心深い奴には、石橋なんか渡らせない方がいい




如何でせう?
別役センセイに騙されはしませんでしたか?
次回も、お楽しみにぃ (^_^)/~
by amamori120 | 2009-11-14 19:55 | ことわざ悪魔の辞典