北新地で
2010年 07月 12日6月19日 夕のこと。
London Tea Room の続きです。
ガイドさんお任せで以下を頂きました。
〆は、お好み焼きで
鉄板焼きとは言うものの、完成品?を運んで来てくれるので、我々は食ふことに専念すればヨロシイ。
ガンガン冷房しているので暑さは全く感じることなく頂けました
London Tea Room で、マフィンなど食わず、ロイヤルミルクティだけにしといたのは大正解でした
この後、紅茶専門店へ
店内を見渡すと
朝比奈隆サンの弟子筋にあたる指揮者(お名前失念)を熱烈応援してはるらしい♪
あのテレマンとは: wikiより
ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann, 1681年3月14日-1767年6月25日)は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家である。生前は同時代の作曲家であったバッハやヘンデルより、人気と名声のあった作曲家とされる。彼の作品は優に4000曲を超え、ベーレンライター社から作品集が出版されているが同時期に始まった新バッハ全集がとっくに終わり、今は補遺版の刊行が行われているのに比べて、いまだに整理がしきれていない。
テレマンは、12歳でオペラを作曲し始めた神童であった。ライプツィヒ大学で法学を学ぶと同時に、学内では学生と市民からなる楽団コレギウム・ムジクムを組織した。楽器の多くを演奏することができ、木管楽器については高い技術を有していたという。23歳でプロムニッツ伯爵の宮廷楽長になると、伯爵が好むフランス風管弦楽組曲を作曲した。27歳で、アイゼナハ宮廷楽長に赴任、宮廷礼拝堂楽団を組織した。
31歳で、自由都市フランクフルト・アム・マイン市の音楽監督、2つの教会(Barfüßerkirche-現Paulskirche、カタリーナ教会)の「教会楽長」に続けて就任した。
テレマンの最大の転機は、40歳となった1721年、ハンザ自由都市ハンブルクに移動したことである。その後46年間、ハンブルク市音楽監督兼、学校「ヨハネウム」におけるカントル(Cantor Johannei)として、オペラ、コンサート、教会音楽や出版を行い、高い名声を得た。テレマンは、裕福な市民層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の市民向け音楽雑誌「忠実な楽長Der getreue Musikmeister」を刊行、毎号、新作楽譜を掲載し、必ず、続きは後の号に載せることで継続して買ってもらうという新手の商法を生み出すという商売上手であった。1722年、ライプツィヒの聖トマス教会の楽長が亡くなった時、ライプツィヒ市はまずテレマンを招聘しようとしたが断られたため、仕方なく知名度の低かったバッハを招聘したというエピソードからも、当時のテレマンがバッハより人気が高かったことがわかる。
テレマンは、オペラ20曲、室内楽200曲、協奏曲100曲、管弦楽130曲、受難曲46曲、教会カンタータ1000曲という膨大な作品を残したが、その中心は器楽作品である。晩年になっても創作意欲が衰えず、晩年の作品にはトリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』とかかれたものも含まれている。
テレマン家もバッハ家ほどではないが先祖は幾人かの音楽家を輩出した音楽一族であることがわかっている。
日本でも人気は高く、日本テレマン協会は1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)、これはこの種の作曲家名を冠する団体ではかなり古い部類に属する。
作品
ターフェルムジーク(1733年) ほか多数
「食卓の音楽」。宮廷の宴席で好んで演奏された室内楽を集めたもの。三つの曲集からなり、各々の曲集に、管弦楽組曲、コンチェルト、クヮトゥオル、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタといった異なった器楽合奏曲が含まれ、「バロック音楽の百科全書」とも呼ばれている。この作品を販売するに当たっては、特別価格での提供と予約者を当作品集の冒頭に記載すると広告したところ、ドイツ国内、海を越えてイギリスからヘンデル氏が、フランスやロシア・スウェーデンからも予約注文があったという。